ハイド氏の奇妙な犯罪最終更新日: 2004/09/05 |
「ハイド氏の奇妙な犯罪」
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今月初めぐらいの本屋で見つけて速攻買った。 わりとサクサク読めて、本当はもう読み終わっててもいいぐらいなんだけどね、 途中経過を一回ここに書きたかったからわざと途中で止めといた(笑) えー著者はフランス在住のイギリス文学研究者で、だから原本はとーぜんフランス語。 原題も「Le Crime etrange de Mr Hyde」って表紙に書いてある。 まーこれ、元ネタの「ジーキル博士とハイド氏」の原題が 「The strange case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde」 (ジーキル博士とハイド氏の奇妙な事件)だから、それをなぞった題にしたんでしょーな。 と、この二つの題名を見比べてみてもなんとなーく察しがつくように、 元ネタがジーキル博士とハイド氏という二人の人物にまつわる事件を描いていたのに対して、 この本はもっぱらハイド氏にフォーカスしてるもんでふ。 156ページまでが本編で全10章。 残り40ページほどは、どーやらノーグレットさんの論文らしい。 なんかめんどくさそーなんだけど、まあ読むんだろうなあ。 あと、本編には途中からシャーロック・ホームズとワトソン博士が出てくる。 なんかねえ、ドイルのホームズもの2作め「四つの署名」に絡めてるらしいんだけど、 オレそれ読んだ覚えないんだよなー。 あれ、読んだっけな?と思って記憶を辿ってったら「緋色の研究」だった。 むーん、これ「四つの署名」のネタばれにもなってたりしたらすんげえイヤだなあ。 本の宣伝文句によると 街角でハイド氏が少女を踏みつけて去った。 これが「ジキル博士とハイド氏」の物語の始まりだ。 なぜ彼はあのような事件を起こしたのか? 事件の結末は? 本書では当のハイド氏がすべてを語る。 物語はホームズ譚と交錯し、見事に二重のパスティッシュとなる。 フランスのスティーブンスン研究者である著者による「ジキル&ハイド」論を併録。 シャーロキアンも必読の一冊。 さーまたわからない言葉が出てきました。 パスティッシュ (pastiche) そんなこんなで8章まで読んで、いま9章の最初のほう。 ここまでの大部分はハイド氏の語り。 ときどき弁護士のアタスン氏のやることに文句をつけつつ、 どんな感じで犯罪を楽しんできたかを語ってる。 案外その語り口は文学的で、キミちょいキャラ変わったのって思わないでもないけど(笑) とにかく彼には彼の視点や言い分もあるわけで、あと2章分はそれに付き合ってみましょー。 [2003/11/23] | ||||||||
小説部分は読み終わったんだけど。 なんだかなあ。 ハイド氏の手記は9章で終わって、元ネタ通りにハイド氏が死んでしまう。 10章はエピローグで、ハイド氏が願ったようにアタスン弁護士が糾弾される。 でもさー、 この小説はアタスン弁護士を悪者にするために元ネタにない話をいろいろくっつけてるし、 それにもかかわらず“ハイド氏が自分で自分の首を締めた”ってのは結局変わらないんだよなあ。 これではあの糾弾に説得力を感じろってのが無理。 まあ、元ネタでも必要以上に他人のことに首をつっこんでたアタスン弁護士に なんの非もないかっつったらそういうわけでもないとは思うけどね、 要するにこの著者のノーグレット先生はそこを論じるために強調しようとして いろいろ裏設定とか裏エピソードを付け加えたのかな? それともこれは、ワルな連中が自分たちのことを棚に上げて他人に因縁をつけるときの 理屈なんてのはこんなもんだって話? 面白いと思う人には面白いのかもしんまい。 オレ的にはそうでも。。。 残り40ページの論文には、もうちょい何か理解を助けるようなことが書いてあるのかな。 これからそっちを読むとしますかい。 [2003/11/23] | ||||||||
>残り40ページの論文には、もうちょい何か理解を助けるようなことが書いてあるのかな。 読んだ。 小説部分を読んでどうにもしっくりこなかったのがなぜなのかってのがわかった感じ。 んで、そこんとこを書きたいんだけど、その前に確認のためもう一回読もうと思ってるとこ。 [2003/12/02] | ||||||||
ずいぶん間が空いちまったけど、やっと更新(笑) ■ まずは紹介 ■えーとまずこの「テクストの生成、ある神話の青春」と題された文章は、訳者あとがきによると、筆者ノーグレット自身が編纂した「ジキル博士&ハイド氏」という論集に収録されたものの一つとの由。 そのせいか、読んでみた感じでは学術論文とゆーよりは随筆に違いよーな感じ。 まあたぶん論文ではないってことでいいんでしょーな。 論文につきものの参考文献は全く示されてないし(訳者が落としたのかもしれないけど) これまた論文の冒頭にあるべき結論やら文章構成やらの明示的な説明がないし、 ちょい肩の力を抜いて書いたように見えるとこもある。 表紙を別にして42ページ。 題名のない5ページぐらいのイントロダクションから始まって、その後に
と続くという、イントロダクションを含めると四部構成。 まあ、きっちりした論文じゃないとはいえ、ちゃんとしたスティーヴンスン研究者が書いた、分量もそれなりにある文章を、素人が全部まるごと相手にして批評文を書いてみようなんてこたあ考えてもしょうがない (^^; とにかく、オレが「ハイド氏の奇妙な犯罪」になぜ違和感を持ったのか、その答えらしいものがこの「テクストの生成〜」の中にあったってこと。 ここからは論点をできるだけその違和感に関係するとこに限定して書いてみよー。 ■ 筆者の観点 (1) 現実と虚構との相似性について ■まず「謎としての作者探し」で、著者がいってることを簡単にまとめてみるとこんな感じ: スティーヴンスンは「ジキル博士とハイド氏」の構想を悪夢から思いついた。 これをスティーヴンスン本人の言葉を借りていえば、“ブローニー”という不道徳な小人さんがアイディアを提供してくれたのである。 もっと簡単にゆーと、 “ハイド氏とジキル博士はそれぞれスティーヴンスンの分身だ。 しかしアタスン弁護士はスティーヴンスンを脅かす外圧の象徴で、分身ではない” とゆってるらしい。 ええっとねえ、 まあスティーヴンスンの作家活動がどうだったかなんてのはオレの知らないことなんで「へえそうなんだ、なるほどね」と思って読むしかないし、 その活動状況と彼の作品とを対比して眺めるってのは面白いつーか当然だとは思う。 けど、だからって現実の三者と作中の三者をそのまま等号で結んじまうのには、ちょい飛躍があるんじゃないかな? 現実における著者自身の人間関係と作中の三者の人間関係が相似だから、ってだけでは、 即イコールとしてしまう根拠として弱いと思うんだけどな。 特に、アタスン弁護士の位置づけがオレ的にはひっかかった。 もうちょい説明が欲しかったとこだな。
# まあ、オレの書く文章にノーグレットさんの文章以上の ■ 筆者の観点 (2) 誰もが持つ内的二重性について ■続く「美意識の問題」は、ハイド氏の容貌とか悪事の内容とかについてスティーヴンスンはあんまし具体的に説明してないって話。 そのため、ハイド氏のどのへんが邪悪なのかについては、人によっていろいろと異なる解釈をすることができる。 それは結局、解釈をする人自身を語ることになる。 つまり、ハイド氏は他人(読者)の内的二重性を浮かび上がらせるキャラだ、てこと。 最後の「神話の考古学〜」では、フランケンシュタインやらダーウィンやらフロイトやらといった名詞が乱舞してて、まあこのへんは学者さんの面目躍如って感じ。 これを全部おっかけるのは大変なんで、あらためてオレの論点に関係するとこに絞りまふ。 ここに出てくる、ノーグレットがアタスン弁護士を観察した感想を簡単にまとめてみるとこんな感じ: アタスン弁護士は人間の内的二重性に対して無理解だった。 そして、誰にだって(アタスン自身にも)他人には見せない不道徳な面なんてあるだろうに、 ハイド氏を不道徳そうだという理由だけで余計な空想力を働かせて社会悪と同一視し、 よせばいいのに追及した。 んで、ここまでのノーグレットの主張をオレ的にまとめると、 “著者スティーヴンスンが、小人さんと妻との三つ巴のせめぎあいで精神的に追い詰められる自分自身に材をとって、人間の内的二重性を物語の形で描いたのが「ジキル博士とハイド氏」である” となる。 やっぱしアタスン弁護士はスティーヴンスンを追い詰める外圧を象徴する存在なわけ。 # ここまで、正しいかな? ■ で、アタスン弁護士って何者? ■ここからがやっと本題で、オレの感想がノーグレットとどう違うかって話なんだけど、 くどくど書く前に結論を書いとくと、 “アタスン弁護士は薬を飲まなかったジキル博士である” あえて著者スティーヴンスンの現実に重ねようとするなら、 “アタスン弁護士は自分自身をより客観的に見つめようとしたときの視点である” てとこかな。 まず、“ジキル博士はハイド氏を内包している存在である”ってのは間違いない。 例えていうと、ハイド氏がウラ一面だけであるとしても、ジキル博士は決してオモテ一面だけじゃなくて、オモテでもありウラでもあるんだよね。 ジキル博士のウラ的な部分は、ハイド氏のような生活にうつつを抜かしたがるんだけど、 その一方でオモテ的な部分はハイド氏(ウラ的な部分)とは切り離されることを望む。 つまり、外圧の有無とは関係なく内的には葛藤があったはず。 それがゆえにジキル博士は両者を分離する薬を作ろうともしたんだろうしね。 アタスン弁護士が望んだハイド氏の追放は、ある意味ではジキル博士のオモテ的な部分が望んだことでもあった。 もちろんジキル博士(のオモテ部分)は最初からハイド氏(ウラ部分)の完全な消去を望んだわけじゃないけど、 分離による両立を望んだのは、つまりオモテとウラは互いに手を切ろうとしたんだろう。 さて、 アタスン弁護士やラニョン博士やその他の世間の皆様がハイド氏を邪悪なものと見なすのは、 結局は彼ら自身が内包するハイド的なものをハイド氏に見るからだ、、、 つーところでは、ノーグレットの指摘は正しいんだろうと思ふ。 んで、そうであればこそ、 アタスン弁護士らはジキル博士と大して乖離してはいない存在なんじゃないかなー。 ジキル博士(のオモテ部分)とアタスン弁護士らは、価値観とか道徳観念とか世間体を気にするとことかでは共通する感覚を持っている。 両者の違いはキャラ設定にあって、自らが内包するウラの存在に自覚的だったかどうか。 それから、ウラがオモテの抑圧に負けずに出てくるほど強いかどうか。 まあそんな感じかな。 ハイド氏を分離対象として眺めるときのジキル博士はむしろ、アタスン弁護士たちと同じ側に立って眺めてるんだと思うよ。 いいかえれば、ハイド氏に恐怖するアタスン弁護士たちってのは、ジキル博士のオモテ部分の外化である。 彼らがハイド氏を追及する様子はジキル博士の内的葛藤を外化したものだ、ともいえる。 さてさて、もしハイド氏が著者スティーヴンソンの分身であり、ハイド氏と葛藤するジキル博士もまたスティーヴンソンの分身であるならば、 ハイド氏を見て嫌悪しジキル博士を救おうとする(で結局失敗する)アタスン弁護士もまたスティーヴンソンの分身なんでしょーな。 違いは、ジキル博士が「オレってこんなにツライのよ」と内的葛藤の苦しみを表現するキャラであるのに対して、 アタスン弁護士たちは「なぜツライかといえばオレってこんなだからよ」とばかりに葛藤の片方(ウラ)をオモテと同じ舞台に引きずり出すための装置でもある、てあたり。 どちらもハイド氏との葛藤がある。 そこで物語が描き出してみせるのは、ハイド氏よりもむしろ、ハイド氏との葛藤なんだよね。 スティーヴンスン自身が、そしてジキル博士も、アタスン弁護士やラニョン博士らと共通する感覚を持っているからこそ、この物語は成立するんだと思うんだけどね。。。 てなわけで、アタスン弁護士がやたらと悪者扱いされるのには違和感を拭えない。 てことで。
# ああ、やっと肩の荷が下りた気分(笑) [2004/09/05] | ||||||||
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